きのうは、逗子にお住まいの建築家・長島孝一さんのお宅にお邪魔した。
長島さんのお祖父様の長島鷲太郎氏が1900年に建てられた別邸で、海辺までは徒歩1分、川に面して庭があり、戦前の別荘族たちの別荘ライフをしのばせるつくり。
(写真は長島孝一著「風土と市民とまちづくり ちいさなマチ逗子のものがたり」よりお借りしました)
長島さんは「逗子なぎさホテル」の黄金時代にゲストとしてホテルを訪れ、当時を語れる数少ない方のおひとりだ。土地売却による閉館時にはホテル存続のための運動もされた。
長島さんとの出会いについては、以前にも本ブログで書いた。
↓
いろいろお話しをお聞きするなかで、弁護士だったお祖父様が、わたしがいま研究中の「鎌倉海浜ホテル」のホテルの顧問をされていたこともわかった。
第二次世界大戦中、幼かった長島さんがお祖父様に連れられ「鎌倉海浜ホテル」を訪れたとき、外国人客(ドイツ、イタリアなど枢軸国の人々がここに集められていたらしい)でいっぱいで、そんなにたくさんの外国人を見たことがなかった長島さんは大いに驚いたというお話などお聞きした。
やはりその場に身を置いた人しか伝えられないものがある。
わたしのなかで、いままで資料で読んで知識として知っていたことが、匂いやざわめきとともにようやく像を結びはじめた。
夕暮れどきの海辺の散歩が日課だという長島さんと逗子海岸へ。
ちょうどサンセットタイムのはじまりで、砂浜のあちこちでは夕陽に向かってヨガのポーズをとる人たちが。江ノ島や鎌倉方面の海辺では見かけない光景で驚いた。
長島さんも夕陽に向かって立つと、ルーティーンの運動を始められた。
手前に大崎、江ノ島の島影の向こうには富士山が重なって見えるという、逗子海岸ならではのサンセットシーン。
かつて「逗子なぎさホテル」に泊まっていたゲストたちはこんな素晴らしい時間のなかにいたのだ。
これも話には聞いていたが、実際にこの場に立って、自分の目で見てみて、初めて実感をもってわかった。
長島さんと浜辺を散歩しながら、もし、「なぎさホテル」を逗子に復活させるとしたら…という、壮大で楽しい夢を語り合った。
ロケーションは眺めが絶好のあそこにして、その先のあそこにはこんなものを作って、そして、海辺を分断しているビーチ沿いの無粋な国道は地下に埋めてしまい、いまある道路はプロムナードに…などなど。夢は尽きない。
いつか、わたしの「なぎさホテルものがたり」を書いてみたいと思う。